地元の神社の来歴
2023年02月15日
「地元の神社の由緒来歴を知りたい!第2弾」です。
今回は「比奈守神社」(茜部本郷693番地1)を取り上げてみたいと思います。
式内社。祭神は応神天皇・神功皇后の2柱です。祭礼は毎年4月3日より3日間。
なお、創建時は後述する理由により不明とのこと。
「ヒナモリ」という名称には、卑奴母離、比奈毛里、鄙守、比奈守、夷守など様々な漢字が当てられていますが、「ヒナ」とは未開の土地、または中央権力の支配が及んでいない土地を指す言葉であり、そこには「まつろわぬ者=外敵」の存在が前提とされていました。
「モリ」は、その外敵から都(みやこ)を守ることを指している、つまり「ヒナモリ」とは、大和王権の国境を守備する軍事的長の名称であり、奈良時代の「防人(さきもり)」に該当する役目だったと思われます。
また、「ヒナモリ」という地名や神社名は現代の行政区分でいうと、福岡県、宮崎県、新潟県、そしてわが岐阜県に分布しており、かつての大和王朝の勢力範囲の末端、すなわち「対ヒナ」最前線に位置していたと考えられています。
本神社は室町時代の明応4年(1495年)に兵火にかかって全焼し、灰燼に帰しています。このときに由緒来歴を示す古文書類がすべて焼失し、勧請、創建時が不明となってしまいました。ただ、上記のような大和王権を守ることを指し示す「ヒナモリ=比奈守」という名が与えられていることから考えると、相当古い来歴がありそうです。
ちなみにこのときの兵火というのは、「船田合戦」の名で知られています。今の正法寺町・薬師町のほぼ全域を占めていた大寺、正法寺の境内を舞台に、当時の守護代斎藤氏の内紛にともなう、斎藤氏と石丸氏との間で戦われたいくさですが、その結果、戦場となった正法寺の七堂伽藍はむろんのこと、この比奈守神社も側杖をくう形で全焼してしまったとのこと。
いつの時代でも戦争というものははた迷惑以外の何物でもないですね。
この神社は灰燼に帰したあと、約200年間放置され続け、再建されたのは江戸期の元禄年間(1688~1704年)でした。再建に尽力したのは上茜部出身で越後在住の八郎右衛門という人です。
200年の間の前半は戦国時代。当時の地元の人達にとっては、再建してもいつまた戦火に焼き払われるかもしれないことを思うと、再建に着手する気力が起きなかったのかもしれません。しかし、江戸期のバブル時代である元禄年間に至って、ようやくお金にも心にもゆとりができた人々が、八郎右衛門による再建の音頭取りにこぞって呼応したとのことです。ただ、このとき再建された神社の名前は「飛田森神社」でした。どういう理由があってこうした名称になったのかは不明ですが、明治時代初めの「廃仏毀釈令」の際に「比奈守神社」と改号され、今日に至っています。
それにしても、前回とりあげた茜部神社といい、この比奈守神社といい、古代期まで遡る由緒のある大きな神社がこの地区に2宇もある、というのは結構すごいことだと思います。
この茜部地区が古代より中央政権と密接なつながりがあったことは、茜部荘が809年に成立したという歴史的事実でも明らかになっていますが、これほどの規模の神社を維持管理してゆくには、この地に住んでいた多くの人達の素朴で熱心な信仰心があったことは言うまでもないでしょう。また、それに加えて歴代の財力と権力のある在地豪族の金銭的な貢献も大きかったと思います。
さらに近世に入ってからの江戸幕藩体制下でも、加納藩から大切に保護されてきたおかげで、今の私たちがこうした神社の建物や境内を目にすることができるわけですから、本当に先人たちの努力には頭が下がりますね。
初詣以外には普段、なかなか足を運べない神社ですが、茜部神社や比奈守神社ほどの大きくて広い境内を持つ神社は、一歩足を踏み入れるだけで、空気が荘厳かつ清浄に感じられ、さらに歴史の重みが体感できる独特な雰囲気があります。
もうすぐ春が訪れます。暖かい昼下がりに、これらの神社にちょっと足を伸ばしてみるのもいいと思いませんか?