【地域のおはなし】歴史編 -川手城-
2022年07月21日
こちらを訪れていただいた方へ、
地域を知る不動産屋として地域の情報や、地域の歴史を紹介させていただきます。
<注意>暇なときにお読み下さい。長文失礼します。
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大進不動産(岐阜市東川手)は、『川手』と呼ばれる地域にありますので、
せっかくですから『川手』についてご紹介しましょう。
川手は、驚くほど繁栄していたんですよ?
『川手』という地名を聞くと、大抵の方が何もない地域、とか、
城東の南で茜部の東、もうすぐ岐南町と笠松町、
岐阜市から外れたところ、なんて言う方がいらっしゃいましたが、
まあ・・・間違いではないです。ですが!!
『川手』という地域は、
とても歴史あり、お城もあり、栄えていたという、
由緒正しき土地柄です!
岐阜市の方が多く言う城の名前に『加納城』がありますが、
こちらは現存しないお城ではあるものの、
地元が誇る加納藩の加納城であることは、聞かされています。
ただ、加納城も江戸時代のお話で、それより以前にも当然歴史があるワケで・・・。
【地域のおはなし 歴史編 -川手城-】
これは鎌倉幕府から南北朝時代に移り変わる頃のお話です。
土岐頼康という方により、今の岐阜市正法寺町に、川手城を築城されました。
川手城(別名 革手城、河手府城)
この土岐頼康という方、美濃の源氏の一族で、信濃国(現在の長野県全域)、
伊予国(現在の愛媛県全域)の平定の功績により、
美濃国・尾張国・伊勢国(現在の三重県東部 桑名-志摩市の一部まで)の
守護職となります。
それ以前は長森城に住んでいたとされ、
手狭になったため1353年(文和2年)に川手城を築城します。
(それだけでも相当すごい人だったなあ、と思っています)
川手城を築いた際は境川と荒田川の間に建設されたほど、
広大な敷地の中に神社仏閣もあり、
戦うための城ではなく住むための城として築かれました。
この土地柄は、自然の要塞と言われる程だったそうです。
1467年(応仁元年)に起きた応仁の乱により、都から逃げてきた公家たちが、
土岐家を頼り、川手に移住したため都文化により、
川手の地域は更に繁栄したというものです。
当時は西の山口(今の山口県の県庁所在地)、
東の川手と言われる程の繁栄があったと言われるほど、
大きな賑わいのある町でした。
『柳に桜をこきまぜて』錦を飾る、
京洛中の態に異ならず盛んな有りさまだった、
というのですから都のような繁栄ぶりが垣間見えます。
1494年(明応2年)、土岐家で相続争いが起こります。
船田合戦により川手城は焼失してしまい、
再建されるものの1530年(享禄3年)に、
斎藤道三により第11代の土岐頼芸を始めとする土岐家は追放され、
その斎藤道三が稲葉山城に拠点を移したことにより廃城となりました。
(1353年から1530年という、170年近くも存続したお城は歴史アリでしょう!)
廃城後も、斎藤道三による加護で川手の町は繁栄したものの、
織田信長の時代になり衰退していきます。
その後も川手城の敷地には土塁などがあったそうですが、
徳川家康により加納城の築城が開始された際、
川手城の土塁の土は、加納城の築城に殆どが使われました。
そんな川手城は、今現在の済美高等学校の全部の敷地が
お城の建物跡だったと言われております。
(2022年の現在は跡地として、スポット?公園?のようになっています)
今回は、『川手城』と川手の町の繁栄をおはなし致しましたが、
住みやすく、繁栄していただけあって賑やかだったそうです。
中山道はそのずっと後の江戸時代に整備されたことを思えば、
川手というところは繁栄をもたらしただけあって良いところです。
(住みやすい、はあると思います!その当時の繁栄は・・・無いですが)
こんなお話ですが、長文をご拝読いただき、ありがとうございました。
※写真をアップしたかったのですが、
曇天続きと、元気な学生がいっぱいでして・・・
写真を撮ろうにも、部活動の邪魔をしそうで・・・
昼も夕方もトライするうちに、高校生から見れば不審者のように見え、
幾度の挑戦の末、今回はパスします。ご容赦ください・・・orz
以上、また地域のおはなしが出来る機会があれば、お会いしましょう♪