【地域のおはなし】歴史編 -宝暦治水-

2022年08月26日

 

今回、岐阜県民として誇れるお話は山ほど私にはあるのですが、

同じ岐阜県民に伝えてみても、「ふーん」程度に流されてしまうお話です。

結局子供や周囲に「歴史の授業で習わない」といつも言われるので、

人気の歴史ではないのでしょう。

 

なぜ、岐阜県民が「ふーん」程度で済ますのか、

このお話をすると友人が「千本松原?なんか、行ったなあ」と呑気に言い、更に別の友人は、

「千本松原って、薩摩の人が植えたんでしょ?なんであれで洪水が収まると思ったのかな」

と言いました。その言葉に驚いたものです。

 

そのため、頼まれてもいないですが、勝手に歴史を紹介してまいります。

 

【地域のおはなし】治水工事編 ①宝暦治水工事

  (①宝暦治水工事、②千本松原、③ヨハネス・デ・レーケ)

 

  愛知・岐阜・三重の県境を流れる木曽川、長良川、揖斐川の木曽三川。

  下流には濃尾平野が広がり、濃尾平野の西側には川筋が網の目のように

  広がっていたため昔は洪水が多発し、

  毎年のように住民を苦しめていました。

 

  3河川が複雑に合流や分流を繰り返す地形であること、

  小領の分立する美濃国では、各領主の利害が対立し、

  統一的な治水対策を採れていなかったこと、美濃国側では、

  尾張藩の御囲堤(犬山から弥富に至る木曽川左岸の堤防)より、

  3尺(91cm)以上低い堤しか造ってはいけなかった、と言われています。

 

  そのため木曽三川は氾濫を繰り返し、土砂の堆積や新田開発による

  遊水地の減少、洪水による被害がさらに激化。何度も何度もこの土地の住民は

  幕府や藩主に訴えをしましたが、

  財政難などを理由に却下されておりました。

   (治水工事をしても変わらず氾濫していた歴史があります)

 

  そんな背景がある状態からスタートしていくお話です。

   ↓↓↓

 

  何度も行われる住民の訴えもあり、1753年(宝暦3年)、徳川幕府は治水工事を

  何の縁もゆかりもない薩摩藩に、徳川幕府はその対策と工事を命じました。

 

  では、何故薩摩藩なのか。

  外様大名の筆頭である薩摩藩でもあり、「御手伝普請(おてつだいぶしん)」という

  幕命だったそうです。この御手伝普請、他にも事例があるものの、

  代表的なお話がやはり、この宝暦治水工事となりましょう。

  他の事例はもっと規模が小さいものだったようです。

 

  1754年(宝暦4年)、薩摩藩は平田靭負(ひらた ゆきえ)に総奉行、

  大目付に伊集院十蔵(いじゅういん じゅうぞう)を副奉行に任命し、

  藩士を現地に派遣して工事にあたらせました。

 

  薩摩藩を出て、工事に関する金策を行いながら平田靭負は大阪に残りながら

  金策を行います。大阪商人から借入等し、947名の薩摩藩士が

  美濃大牧(養老郡養老町)に入ります。

 

  1754年(宝暦4年)から始まった工事ですが、費用や予定も上回り、

  薩摩藩財政の2年分以上の40万両という金額を費やしました。

   (40万両→現在の300億円以上)

 

  1754年4月14日、最初に、薩摩藩士の2名が自害をします。

  それは3度堤が破壊され、破壊の指揮を幕府の役人が執っていたことがわかり、

  それに対する抗議だったそうです。

  この工事の設計(宝暦治水による工事の設計)の変更があったり、

  完成したものを壊させて作り直させたりもあったのです。

 

  でも、幕府への反発と疑われるのを恐れたのか、

  割腹が御家断絶の可能性もあった為か、

  平田靭負はそれを届け出ませんでした。

 

  この工事中に、幕府側の人間も2名が自害してるそうです。

  幕府側は食事も一汁一菜と規制し、蓑や草履も安価では売らないように

  秘密裏に地元住民に指示していた、と言われてます。

 

  経費節減の観点もあったそうですが、当時はごく普通の命令だったそうです。

  

  更に人柱として1名を犠牲にし、更に同年8月にはこの土地内に赤痢が流行。

  粗末な食事と、過酷な労働で体力が弱っていたのも原因になったのか、

  157名が感染し、33名が病死しました。

 

  それでも不屈の精神で1755年(宝暦5年)3月27日に治水事業最大と言われた

  難工事が完成。

  その出来栄えは、検分に来た幕府側も絶賛する程、

  完成度の高いものだったそうです。

 

  1755年(宝暦5年)5月22日に工事が完了しました。

  幕府の最後の検分を終え5月24日に、

  総奉行だった平田靭負はその旨を書面にして国許に報告。

 

  翌日の5月25日の早朝、現在の大牧薩摩工事役館跡で、

  平田靭負は割腹自殺した、と言われています。

  (これは病死という話もあります)

 

  しかし、辞世の句には

  『住み慣れし里も今更名残にて、立ちぞ煩う美濃の大牧』とありました。

   (たちわづらうとは、立ちくたびれる、という意味です)

 

  こうして出来上がったのが『油島千本松締切堤』と言われ、

  宝暦治水工事は、後に宝暦治水事件という名前として、

  歴史を刻んでしまうほど犠牲者が多かったのです。

 

 

  ここで、千本松原が出てきました。

  では、次回『千本松原』をお伝えしましょう。