地域のお話 古地図編+歴史編2

2022年09月26日

皆さん、境川という川があることはご存知ですね。今は各務原市内を源流とし、岐阜市・岐南町・笠松町・羽島市を経て長良川に合流する、私達に身近な川です。

 

 ところでこの「境川」という名の由来はご存知ですか?すぐ思い浮かぶのはふたつの地域を区切って流れる川だから、そう名付けられたのじゃないか、ですよね。

たしかに、この川はこの付近では、岐阜市と岐南町の境を流れています。でもずーっと以前(すくなくとも440年ほどより前)からこの川は境川と呼ばれており、かつては美濃国と尾張国の国境を流れていたことからそう名付けられたとのことです。現在の行政区分に言い換えれば岐阜県と愛知県との間を流れていた、ということになりますが、「いやいや、それは木曽川でしょ」ですよね。

ところが、今の境川の中・下流部の昔の名前は「木曽川」でもあったのです。つまり、昔は「境川」イコール「木曽川」だったということなのです。

 

戦国時代の天正14年(1586年)に未曾有の大洪水が発生しました。この大洪水によって田畑は全滅し、集落は押し流され、むろん人的被害も膨大なものとなりました。

そして、何よりも大きな変化は当時から大河であった木曽川が自らの流路を大きく南側に変えてしまったのです。 

もともと同じ流れだった川が2つに別れ、もとの流路を「境川」、新しい流路が「木曽川」となりました。そして、この天正14年大洪水以降、豊臣秀吉の裁定によって、美濃・尾張の国境は新しい流路の木曽川となったのです。

 

この結果、木曽川に横断されることになった尾張北部の3郡(葉栗郡・中島郡・海西軍)は、それぞれ真っ二つに引き裂かれ、美濃に羽栗郡(編入時に葉→羽に変名)・中島郡(後に羽栗郡と合併して羽島郡)海西郡(後に海津郡)が編入され、尾張には葉栗郡・中島郡・海西郡(後に海部郡)が従来の領域をかなり減らされて残りました。

 

さて、この古地図をよくご覧ください。境川の両側に当時の集落(村)が湾曲しながらも一列に並んでいるのが分かります(二本の赤い線)。だいたい500㍍~800㍍と、南北にかなりの間隔をあけて・・・

そう、お察しのとおり、これこそがかつての木曽川の流路だったのです。この旧流路をたどっていくと、岐南町はむろんのこと、旧柳津町、笠松町、羽島市にかけての地域は境川(当時の木曽川)の南に位置しており、つまり、かつては「尾張国」だったのです。

 

大洪水があった天正14年といえば戦国時代の真っ只中。武将たちは自分の領地を必死に守りつつ、他人の領地を奪うため虎視眈々と機会をうかがい、そして合戦ともなれば多くの人命を犠牲にするのが当然とした時代。むろん自分の討死も覚悟して・・・

時の為政者の鶴の一声があったとはいえ、いっときの大洪水の結果、広大な土地が瞬時に「尾張」から「美濃」に移転したのを見て、当時の武将たちはどう思ったのか、大変興味深いですね。

 

(※なお、二本の赤い線は大雑把な目安として表示したもので、当時の流路を正確に表したものではありません)

旧木曽川流域の表示